ヨーガと禅を語る
〜ヨーガは生き方の実践方法〜
講師
奈良康明先生(当時、駒澤大学総長)
本文は、2002(平成14)年4月7日、日本ヨーガ禅道院の「初転法輪入仏開眼供養式」の際に行われた奈良康明先生の記念講演要旨( 「たいまつ通信」創刊号掲載)です。
お釈迦さんはヒンドゥー教徒?
今日は、「ヨーガと禅」というテーマをいただいております。通常、ヨーガはヒンドゥー教の修行法、禅は仏教の修行法だといわれています。果たしてそうなんだろうか、ヨーガと禅とはどういう関係にあるのだろうか、ということからもう少し広くヒンドゥー教と仏教の関係を考えてみたいと思います。
お釈迦さんはヒンドゥー教徒であったのだろうか? 答えはイエスでもあるしノーでもある。問題はヒンドゥー教って何だ、ということですが、インド人は、お釈迦さんはヒンドゥー教徒だと確信しています。
インドにヴィシュヌという神さまがおり、世が乱れたとき、この世に降りてきて、平和と秩序を回復するお方だ、という信仰です。ですから歴史上の争乱のあと秩序と平和が取り戻されたとき、それに力を貸してくれた歴史上の人物、神話上の人物、文学上の人物などがみんなヴィシュヌ神の生まれ変わりだというんです。そして、ヴィシュヌ神の生まれ変わりの九番目がお釈迦さんだということになっております。
お釈迦さんが生まれた時代
更に、もっと本質的な問題を考えてみましょう。お釈迦さんはインドに生まれましたが、生まれたときの文化的世界は何だったのでしょう。ヒンドゥー教なんですね。ヒンドゥー教というのは、昔の神道を考えて頂ければ分かります。大昔から日本人なら日本人というグループがあって、おのずとそこに生じ、発展してきた物の考え方、宗教観、世界観、そうしたものをすべてひっくるめて、今私どもは神道の世界というんです。そのころの神道を宗教という人は全く居なかった。だから、そういう神道の世界で誰が信者なんだといったら、そこに生まれた人が神道の世界の住人なんだと言わねばならないわけです。
これを宗教学では民族宗教と言います。ある民族に固有の宗教で、開祖もいないし特定の教義もありません。ひとつの文化的世界があるだけです。ヒンドゥー教もインドの民族宗教で、お釈迦さんが生まれるずうっと前からヒンドゥー教の世界がありました。そこで お釈迦さんが生まれ、育ち、教育を受けて、それまでのヒンドゥーの世界では誰も説いたことのない、キラキラした新しい教えを説かれた。だから仏教は独自の信仰、教義を持っているわけで、どれをとってもヒンドゥー教の教理とははっきり違います。
ですから、お釈迦さんがヒンドゥー教徒だというと語弊があります。ヒンドゥー世界の人間なんだと、こう言いますと分かりやすくなります。そういうことを考えてインドの人は、お釈迦さんはヒンドゥー教徒であるというのです。
即ち、仏教もヒンドゥー世界の中の、一つの宗教だというのは正しい見方です。違ったところはもちろんありますが、似たところもたくさんあります。たとえばヒンドゥーは多神教で、仏教にもたくさんの仏、菩薩がいます。日本の神道も多神教ですね。八百万の神々がいます。インド、中国の宗教も日本の宗教もみんな多神教ですから私は、「あれもこれもの神さま」と言っています。
インドの神様と宗教の基本
インドにはシヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマンなどの神さまがいます。小さな町や村にも神さまがいて信仰されています。しかし、そのたくさんの神さまの背後に絶対唯一の神さまがいるんだという考え方がインドにはあります。何々神の信者ですよといって、それぞれ何を信仰していようと、その元にいけば同じじゃないか、ということです。そうしますとシヴァの信者とヴィシュヌの信者がケンカする必要がありません。仏教の諸仏・諸菩薩も結局は一つの真実(法)に帰着します。
それに伴って、宗教的な神話が語られ子どものときから身体に染み込んできます。だからヒンドゥーの世界では宗教戦争はほとんどなく、仏教もその中の一つですから仏教対ヒンドゥー教という争いは歴史的にはありませんでした。
ところが一神教になるとそれが違ってきます。現代は、宗教戦争が多い世の中になってきています。「あれかこれかの宗教」と「あれもこれもの宗教」この二つが、どうやったら仲良くやっていけるのか。そういう考え方と方法論をこれから探し求めていかねばならない、こういうことになってきます。
インドの宗教の基本には宗教行法がありますが、その主要なものが実はヨーガです。同時にそれは、私どもがどうやったら幸せをつかみながら生きていけるか、という宗教的な生き方の実践でもあるんです。
ヨーガはアーリヤ人がインドに入ってくる以前からあった伝統で、インダス文明に瞑想をしている印章が出ています。古い時代から瞑想があって、それはヨーガのポーズとそっくりな恰好をしています。
禅定という言葉があります。ヨーガの八支則の七番目です。禅定というのは坐禅、瞑想です。このヨーガの八支則が教理となって説かれるようになったのは、『ヨーガ・スートラ』という哲学的な本が出てからで、そこではヤマ、ニヤマから始まって、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディと体系づけられています。
仏教は『ヨーガ・スートラ』の成立よりずうっと古いものですから、ヨーガのように八つの部門という形では説かれていませんが、ヨーガで使っている一つひとつの言葉は初めからあります。プラーナーヤーマという呼吸の方法もあります。体系づけられてはいませんが、それがいろんな形で説かれていて、仏教の実践の基本になっています。
禅定というのは瞑想です。『ヨーガ・スートラ』や仏教の教義には、瞑想が深まってきたとき心がどのようになっていくか、という教えもあります。同時にもう一つ重要なことがあります。それは、自らの生活をきちんと浄めていけというもので、エゴを振り回したり、人さまに迷惑をかけるようなわがまま勝手な生活をして瞑想したって、何の意味もない。そうした宗教的な教えに誠実に従いながら、自分自身にも誠実な姿勢を取り、修行を続けていけという教えです。
ヨーガはあらゆる宗教の根本にある自由なもの
インドでは、修行とは自分が生きるということと同義です。ですから仏教とは私どもが生きる道のことです。そしてヨーガは仏教の立場から言えば、どうやって正しく生きるかということを自分の体に言い聞かせてくれる行法です。だからこそ八支則の最初に生活をきちっと調えていくということが説かれているわけです。したがって、ヨーガはヒンドゥーのシヴァ派だけのもの、ヴィシュヌ派だけのもの、仏教だけのものではありません。インドのあらゆる宗教の根本にあるものです。逆に言いますと、ヨーガを勉強しながら仏さんを拝みます、という人もいたし、ヨーガを実践しながらシヴァ神を信仰していますという人もいた。だから、基本的な行法と信仰の対象が自由に組み合わさっているのです。ヨーガのなかの重要な一つが禅定つまり坐禅で、ヨーガと禅はバラバラに離れたものではなく、同じインドの行法です。そういうふうに考えて頂きたいですね。